「研究を聴く」 —元池育子准教授—
すでに「考えなくてはならない時代」に入っている。元池育子准教授は、ゲノム分野の急速な発展を肌で感じている。遺伝子技術をよく知る一科学者であり、当然その課題に対する思慮も深い。彼女のゲノム解読への躊躇いは、新しい技術が迫る選択の難しさを物語っていた。
過渡期の技術
今年4月、中国の中山大学のチームが受精卵のゲノム編集を行ったと発表した。英ネイチャー誌、米サイエンス誌が論文掲載を拒否した経緯がある。倫理面での重大な問題があり、時期尚早との批判が相次いだ。
ゲノム(=遺伝子情報)解析技術は医療分野で広く応用されているが、意図的に改変する「編集」がヒトの受精卵で行われた報告例は世界初だ。遺伝子技術は倫理面も含め扱いが難しく、しかし有益だ。元池准教授は現在、身体データを用いる研究の傍ら、ゲノム研究を個別予防・医療に役立てるためのプロジェクトにも取り組んでいる。
高齢化が進む現状では「個人が心身の健康を保てることが大事」と指摘する。たとえばどの抗がん剤が効くのか、ゲノムから読み取ることができる場合があるという。これまでは「体質」で済まされてきた個人の体の特徴を分析し、最終的に予防医療につなげる狙いだ。
ゲノム解読が一日でできるようになり、一人当たり2万円程度の解析サービスが打ち出される(米国企業の商品の一つ)など、技術革新は驚異的だ。だが、着床前スクリーニング検査などで技術が応用される一方、複数の解析機で読んだ場合に解析結果の不一致があるなど、精度は不完全なのが現実である。
加速する技術発展、遅れをとる議論
元池准教授は、多くの人が生後すぐゲノムを読むほどに技術が普及するまでの間なら、かえって解析の精度が不完全な今「読んでしまうのもあり」だと感じている。
解読をして不治の病が判明したとしても、それを知りたいかどうかは、一人ひとり答えを出すのが難しい。また、治療法が存在する疾患だけを調べるのか、病気の有無ではなく将来罹患する確率で示されたらどう捉えるか、など考えられる課題は様々だ。全面的に分析結果を信頼する必要のない現段階では、このような問題に向き合う負担も少ないかもしれない。
3人の遺伝子を受け継ぐ体外受精技術が合法化したイギリスなどと比べ、日本は「こういう問題がありうるという認識が普及していない」。個人の遺伝子は究極の個人情報だ。例えば学校の授業で正確で新しい知識を提供し、判断の難しい問題について(結論を強制せず)考える機会があってもいい。議論と法整備は技術に追いついていない。
選択肢が増えるということ
遺伝情報を知ることで、人生の選択が変わるかもしれない。ある病気にかかりやすいことがゲノムから読めれば、個人が保険を選ぶ判断材料になることもある。この点について、アメリカでは遺伝子情報差別禁止法が制定され、保険や雇用において(使用者側が)遺伝情報をもとに不利な扱いをすることを禁じている。
そして遺伝情報を知ることは、一人ではなく二人の問題にもなり得る。ある場所の遺伝子に変異が見られる場合、一人では特に問題が無くても、父親と母親で同じ場所に変異があるとその子が発症する病気はひとつではないそうだ。知ってしまった後で、結婚や出産に踏み切れるのか。ゲノムの解読は「そこはかとない怖さ」を内包している。
元池准教授は「子どもに伝えられるかな」と葛藤を見せる。科学者のうちでも、解読に抵抗感の無い人も、悩む人もいる。もし自分のゲノムを読んで、対処法が未確立の優性遺伝や母性遺伝の問題が判明したら。また、概念を説明することはできても、何歳から同意と言えるのかは決められない。倫理面の課題として学生に問題を示すことよりはるかに率直で、難しい。
研究者として
科学者がどこまで言及するか、は扱いが難しい問題だ。元池准教授は、「バイアスをかけさせたくない」という。専門的な知識を人に聞かれたとき、個人的な思いを介在させて良いのかは悩みどころだ。
科学者としては知識を先入観なく伝え、それによって新技術の過信や過度な不安といった行き過ぎを止められるのなら、と願う。早期治療の開始や適切な薬の選択など、技術発展に裏打ちされた利点は多い。
そして忘れてはならないのは、健康はゲノムだけで決まるのではなく、実際の生活とともにあることだ。遺伝子を解読しても、普段の生活習慣が健康維持に繋がることは変わりない。技術には利点も問題点もあり、万能ではないこと再認識する必要がある。
生命倫理や次世代への影響と絡む分野のプロジェクトに関わる。発展した技術、解明された現象は、その事実がなかったことに後戻りすることはない。専門家としては、自分で決められるだけの材料を提供していきたい。「フラットに伝えて、自分で決めてほしい」。
取材を終えて
どこか控えめな、優しげな話し方が印象的だった。ゲノム分野で考えられる倫理的な問題は多いが、彼女の思考の深みは、二人の子どもを育てていることと密接につながっていた。倫理や選択について考える道徳の授業があっても良いのでは、という会話の中での共感があった。また、この分野の技術発展はあまりに急速で、自分が当たり前のように遺伝子情報による医療を受ける日もそう遠くないかもしれない、との所感を得た。
2015.9.16
(文・山口史津)
元池育子(もといけいくこ)
博士(理学)。名古屋大学理学部出身。同大学人間情報学研究科博士課程前期、京都大学理学研究科博士後期課程修了。
学位取得後は日本学術振興会特別研究員(PD)、公立はこだて未来大学助手/助教、科学技術振興機構 さきがけ専任研究者を務める。
その後、京都大学物質—細胞統合システム拠点 特任研究員(2012)、
東北大学情報科学研究科 プロジェクト特任助教、
東北大学メディカル・メガバンク機構助教を経て、2014年9月から現職。